笑いのカイブツ ツチヤタカユキ

食堂の列に並んでいる時、電車の席に座っている時、騒がしい居酒屋にいる時、嫌でも知らない人同士の会話が耳に入ってくる。大抵の場合、それはつまらなく聞こえる。イライラしている時ほど聞き入って、さらにイライラしてしまう。つまんねえ話、でかい声でするな。バカ。他人の話なんて放っておけば、とか、そんなの気にしたことないよ、とか、そんなこと言われても耳には入る。そもそも、そうやって外にアンテナを立てているから俺は当意即妙でユーモアに富む話ができるんだ。改めて表明するのは恥ずかしいが、食堂の列や電車の中や居酒屋にいる人たちより、自分の方が面白いと僕は思っている。でも、自分にはお笑いしかないしお笑い以外はどうでも良いし、お笑いを奪われたら死ぬと言い切れる男の話を読んで、自分のユーモアに言及する気が起きなくなった。

 

ハガキ職人として頭角を現し、漫才コンビの作家として上京する、というツチヤタカユキの経歴は、そこだけ聞けば華々しいサクセスストーリーにも思える。しかし、彼は全て投げ出して、生まれ育った大阪に帰る。「人間関係不得意」というあの理由で。不得意というより、彼の中での優先順位はお笑いだけがぶっちぎりの一位で、それ以外は等しくどうでも良い。大喜利の回答や漫才のネタやラジオのネタメールを、一日に何千個も出す。脳が疲れたら小説や映画や落語でインプット。またボケを出す。手段が目的になり、逃げ込む場所が自分を追いかけてくる。明らかに「異常」で「病気」な彼は、笑いの本質を「人間の道理の”正しさ”を、的確かつ盛大に破壊する」ことだと言う。だとしたらこれで良いはずなのに。苦しい。

 

周囲の人間から彼の行為は認められない。アルバイト中でも「この時間があればいくつボケが出せる…」と考えている。一緒にお笑いの仕事をするスタッフとの関係さえどうでも良いと思っている。僕のような人間が、この時間があればあれができた、これができたとボヤくのとは全く質が違う。本当にやれるからこそ、彼のいらだちは想像を絶するものだと思う。本当にやれるのに、嫌われて場所がなくなる。本当にやれるのに、金がなくて働かないといけなくなる。どうでも良いしくだらないけど、認められるにはやらないといけないことを、どうでも良いしくだらないと彼は言ってしまう。何も間違ったことは言っていないのに、明らかに彼は間違っている。彼一人の才能が突然何もないところから認められるはずがない。文中には一度も、どういう風に認められたいということに触れる箇所がない。面白いからお金を恵んで生活させてあげようなんて金持ちが現れるはずもないし、漫才師と彼だけで職業群としての「お笑い」は成立させられない。なぜなら彼は他のことができないからだ。そもそもどうなりたいのかもわからない。ただ、苦しい。

 

救いがないことばかり書かれている。ただ、かつての恋人と母親に対しては痛ましいほどの愛情と申し訳なさを綴っている。彼の悲しみにただ乗りしていることは承知の上で、涙が出て仕方なかった。お笑いを通じて自分を認めさせようとする彼を、無条件に肯定して愛してくれる存在。そのまま死んでいた方が間違いなく幸せだっただろう、と思えるくらい、かつての恋人との日々は美しく、優しく描かれている。金がなくてプレゼントが買えない彼は、雑誌の大喜利コンテストの景品を総取りして恋人に贈る。こんな映画みたいな話が、こんなに美しくてかわいそうな話が本当にあるんだ。それでも彼は不幸せになっていく。

 

彼の中でのお笑いは、数式のごとくルールに従って答えに到達するものだ。「代入」とか「方程式」といった言葉が何度も登場する。作中でも同様のシーンがあるが、今彼がバラエティ番組を見たら絶対に暴言を吐くと思う。自分から面白いことを発信することより、周りがいじりやすいことがタレントが人気を得る条件のように思える。だから、笑いの力そのまま、協調性や社交性を身につけてテレビに挑戦したとしても、スターになれるとは限らない。努力とは無関係に、持ち合わせた「人に好かれる才能」に打ちのめされるのは、別にお笑いの世界だけではない。「面白い」ことなんて人に好かれるためには必要ない。クラスの中心にいたやつなんか、大して面白くもなかったはずだ。コミュニティで「一番面白い」なんて言われているやつなんか、普通のことを大きな声で言ってるだけだ。はい、偏見。

 

時々、絶対に人に謝らない人がいる。あれは謝ったら自分の何かが損なわれると思っているのだろうか。同じように、ツチヤタカユキは自分の足りない部分を認めて補おうとすることを、自分自身の才能のなさを認めることと考えているように思えた。それでも、彼がお笑いの天才であることは間違いないと思う。そんな男が、ボケの裏側にあるグロテスクな挫折を見せたら、こちらが笑えなくなるなんてことがわからないわけがない。と思って、気づく。この人、本当にお笑いをやめて死ぬ覚悟で本を書いている。

 

気が狂うほど何かに取り組んだことはない。これからあるとも思えない。天才ではない自分は、素直に人に謝ろう。足りない部分を認めて補おう。カラオケで歌う場面で、ツチヤはブルーハーツフジファブリック毛皮のマリーズを歌っていた。僕は泣きながら、天才と音楽の好みが似ていることを光栄に思った。古本で買わなくて良かったと思った。できたらみんな買って読んで欲しい。この人への敬意はお金という形でしか示せない。リスナーがラジオを聞いて笑う声は、ハガキ職人には聞こえないから。

 

笑いのカイブツ (文春文庫)

笑いのカイブツ (文春文庫)

 

 

第2図書係補佐

好きな作家、画家、デザイナー、映画監督、ブランドなどが聞かれてもすぐに言えない。ボーッと生きてきたことが露呈するようで恥ずかしいしコンプレックスの一つだ。夢中になるほど何かにのめり込んだ記憶もなければ、小さな頃からずっと続けていることもない。よって、人並み以上の深い知識や技術もない。

 

過ぎてしまった時間が必要以上に輝かしく見えたり、輝かしいものになり得たように思えたりしやすいものだということは理解している。それでも、生まれてから今までの時間は決して短くなかった。同年代の、幼い頃から一つのことに(あるいはいくつものことに)打ち込んできた人たちとは、追いつきようもない大きな差がついていることも認めなくてはならない。

 

自分が何者かになれる、という思い込みはほとんど全人類に当てはまるらしいことはなんとなくわかってきた。本当に何者かになっていく人と、自分はスポットライトを浴びる側ではないと納得する人と、自分には何もないことを認められないままの人。必ずしも白黒をつけなければならないことばかりではないが、身の丈を知らないままでいるのは好ましいことではない。

 

少年漫画の主人公が年下になり、青春映画の主人公が年下になり、仮面ライダーが年下になり、気鋭の若手芸人が年下になった。中学生や高校生の頃、若きアスリートの活躍を伝えるテレビのニュースを見た母に「ほら、同い年だよ!」などとよく言われた。だからもっと頑張れということなのか、お前にも何かすごいことができるということなのか、母の意図はわからなかったが、妙に腹が立ったのは覚えている。だからなんだ、という母への苛立ちだったのか、僕には無理だ、という自分への苛立ちだったのか。両方だったのかもしれない。

 

何かを始めるのに遅すぎることはない、というが、ユーキャンのボールペン字講座を始めたとして僕の書く字が少し綺麗になるだけだ。それはそれでとても意味のあることだけど、それで褒めてくれるのは家族くらいのもので、誰かに憧れてもらえるわけでもない。憧れられてみたいのか、褒めてもらいたいのか、自分には他人にはない何かがあると言われてみたいのか?自分がどうなりたいのかもよくわからないが、叶いそうとは言い難いのだけは確かだ。

 

かといって、時間をさかのぼり、かつての僕に「もっとこういう風に過ごしなさい」とお説教したとして、僕は僕の言うことを聞くだろうか。多分あの時はテレビを見ながらゴロゴロしていたかったし、もっと布団の中で寝ていたかったし、宿題をきちんと済ませるのが先だと思っていた。僕は怠惰で小心者だったし、今もそうだ。

 

やりたいことをやるにはやらなくてはならないことがある。「やりたいこと」、「やらなくてよいこと」、「やらなくてはならないこと」の三つに物事を分けていくとして、僕が思い切りよく「やらなくてよいこと」の箱に物事をぶち込める人だったならどんなに良かったかといつも思う。「やらなくてはならないこと」の箱はいつもパンパンだったしその箱一つで精一杯だった。「やりたいこと」の箱もまたいっぱいだったが、そちらに構っている余裕もなければ度胸もなかった。

 

又吉直樹の『第2図書係補佐』を読む。サッカーも上手く、作家としても成功し、お笑い芸人としても人気であり、オシャレ芸人として名を馳せる男が、これまで読んできた本にまつわる、あるいはまつわらないエピソードを書いた本だ。そして紹介された本は残らず読みたくなる。こんなに全部を持っているように思える人が、「太宰治の本は自分のことを書いてると思った」「夜河原で泣くことがあった」と書いている。

 

自分のことをダメだと思ったり、何もないと思ったり、時間を無駄に過ごしてきたと思ったりするのは誰にでもあることなのかもしれない。ただそれを他人の目に触れるところで表に出さない人が、「心が強い」と言われたり「何も悩みがなさそうでいいな」と言われたりするのかもしれない。

 

ネガティブな感情をSNSに発散しようが、日記に発散しようが、ブログに発散しようが、直接誰かに迷惑をかけなければ僕は自由だと思う。けれども、人目に触れるところで(例えばSNSで)ネガティブを表明することは一般に好ましく思われない。自分を強く見せたいと思うのは自然であり、他人もそう思っているのが普通だと考えるなら「情けないことをするな」「かわいそうと思われたいのか」と腹が立つのもわかる。「自分はきちんと自分の内で収めているような感情を好き放題に垂れ流している」とか、「言ってもなんの解決にもならないことについて不満を言うのは情けない」とか、全部正論だ。

 

結局なんの話がしたかったのかよくわからない。なるべく感傷的に傾きすぎないように自分のネガティブと向き合ってみたつもりだったのに、長々と暗い文章を連ねてしまったような気もする。読み返していないしよくわからない。

 

より良くなろう、より見識を広げようといろんなものをかじったけど、本当に好きになれたものがどれだけあったのかよくわからない。好きな作家、画家、デザイナー、映画監督、ブランドなどが聞かれてもすぐに言えない。

 

 

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

 

 

開き直っちゃダメだけどにわかがダメなわけじゃないだろ

 

 

映画『(500)日のサマー』のヒロインが「私もスミスが好きなの」と言うシーン、『レディ・プレイヤー1』のヒロインがジョイ・ディヴィジョンのTシャツを着ているシーン、『モダンライフイズラビッシュ』のヒロインがレコード屋で「ブラーのアルバムは全部持ってる」と言うシーンには、「主人公と同じ趣味の女の子が出てきた」という以上に意味がある。

 

スミスやジョイ・ディヴィジョンやブラーを好んで聴いてるような女の子はあんまり多くない。みんな星野源や三代目や乃木坂が好きだし、「カーモンベイビーアメリカ!」くらいしか口ずさめる曲がない人だってたくさんいるし、大体ミュージックFMで音楽を聴いているのだ。だからこそ、最初に挙げた三つのシーンは「趣味を分かち合えない主人公(そして観ている俺たち!)に運命の人が現れた!」という読み取り方ができるようになる。これはとても美しいことだし、今までみんなが聴いてない音楽を聴いてきた自分の日々は間違ってなかった、という喜びを与えうる仕掛けだと思う。

 

だけれども、仮にそれが読み取れなかったら悪いのかよとも思ってしまう。少なくとも『(500)日のサマー』なんて「名作○選!」みたいな特集に入ってることも珍しくない有名作品だし、スミスなんか聞かない人が観てもなんら不思議はない。そういう人が上述のシーンを「あ、趣味が合う人と出会ったんだな」とだけ解釈して最終的に映画に感動したらなんかダメなのか?『レディ・プレイヤー1』に散りばめられた膨大なオマージュを、読み取れたら読み取れただけ偉いのか?

 

もし映画以前の知識がなければ楽しむ資格がない映画があるとすれば、そんなことはきちんとパンフレットやポスターや予告編で明言しておくべきだ。僕は上に挙げた映画の中のオマージュ的な部分を読み取り切れたとは思わないが、それでも感動的な映画だと感じた。(ただ『モダンライフイズラビッシュ』はしょうもなかった)

 

映画で例えたけれど、別にマンガでも小説でも音楽でも一緒で、「このトラックは〇〇のサンプリングだ」とか「このコマの構図は〇〇のオマージュだ」とかは「わかったらなお楽しい」ものであっても「これがわかんないやつが作品語るな」っていうものであるべきではないだろ、と僕は思う。が、こういう「〇〇も知らないのかよ」というオタッキーかつ意地悪なものの言い方をする人の声がだんだん大きくなっている気がする。また創作する側の人にも「あまり大勢の人にわかりやすいようなものは作りませんよ」みたいな姿勢の人が少なからずいそうだ。なんも知らない人にも楽しめて、作り手側と同じものが好きな人はより楽しめるのが理想ではないのかと無知な私は思うのです。「反知性主義」とか「スノビズム」みたいな言葉でもっと端的に説明できるような話だろうけど、難しくてよくわからない。愛されてるなら乃木坂だろうがEXILEだろうがメイクマネーできるわけだし、ミュージックFMで聞かれようが武道館で聞かれようがアナログで聞かれようがサブスクリプションで聞かれようが良いもんは良いってことにはなりませんかね?

シティポップと埼玉県

「シティポップ」と呼ばれる音楽が流行っている。シュガー・ベイブとかオリジナル・ラヴとか山下達郎ではなく、今はSuchmosとかYogee New Wavesとかを指すみたい。自称シティポップの人もいるし、シティポップとしてくくるな、みたいな人もいるだろうが、要するに「オシャレな音楽」と言えば間違いなさそうだ。もちろん好きな曲もたくさんあるけど、1ジャンルとして好きとは言い難い。ここで具体的に曲とか貼るとよろしくないので貼らないしそれは本当に言いたいことではない。

 

諸手を挙げて絶賛できない理由は極端な言い方をすれば、僕が埼玉育ちだからだと思う。ネオンの街、かっこいい服屋、フロアで君に耳打ち、とかシンプルに知らないからだ。シティポップが刺激するのは、ざっくり言えば「東京」への愛(もしくは憧れ)だろう。自分自身がそう思うわけではないが、シティポップは「雰囲気だけ」「フェスにデートに来てる奴らのための音楽」と一刀両断されることも珍しくない。オシャレな雰囲気を作ることだって簡単じゃないんだから、雰囲気だけでも作れていることは素晴らしいことだろう。ただその雰囲気作りに使われるのが上述のように「ネオン」「かっこいい服」「ダンスフロア」みたいなワードだったりビジュアルやPVだったりするわけだ。そこには(浮浪者とか客引きとか道端のゲロとかデモ行進とかは度外視された)理想としての「東京」がある。「シティ(都会)」と言い換えてもいい。

 

東京の人には多分身近なんだろうが、埼玉県の端っこで育った僕からすると全然ピンとこない。強いて言えば駅前のパチンコ屋と学習塾くらいが明るかったし、それも控えめだし、CDはHMVタワーレコードブックオフで買うものだったし。イケてるCD置いてるイケてるお店なんか本当にあったのだろうか。探していないだけとか、探すだけの気概がなかっただけと言うのもある意味正解だけど、もう少し複雑な理由がある。と思う。

 

本当に東京でオシャレに暮らしている人に加えて、地方出身の人は理想としての「東京」に強く憧れる傾向(あくまで周りの人にそういう人が多い気がする程度)があるように思う。情報は都市に集中し、そこから距離が開けば開くほど地方の街に届く情報は少なくなる。大学に入るまでは実感もできなかったが、世の中には(だ埼玉よりもずっと)田舎の町と田舎の町出身の人がたくさんいる。わずかに入ってくる情報は時に美化され、時に幻想込みで膨らんでいるのだろう。ある種の勘違いといってもいいのだけど、憧れで膨れまくった勘違いがビートルズローリングストーンズを育てたわけで、これは全く悪いことではないし、美しい話でもあると思う。ところで、いわゆるシティポップの人たちは東京育ちのイメージが強いのだけど、田舎出身で今東京に出てシティポップをやっている人たちっているんだろうか。

 

話は東京の北、ベッドタウンの中のベッドタウンである埼玉県に戻る。埼玉県内でも場所によるだろうが、僕の育った街からイメージの中の「都会」である渋谷とか新宿とか(この例が既にダサいのだろうか)までは一時間ほどだった。一時間で行けてしまうのだ。新幹線や夜行バスで何時間もかけてたどり着いた憧れの原宿で変な服を買って帰る女の子や、ビクビクしながら飛行機に乗って憧れのロックスターを武道館に観にくる男の子の気持ちが、僕には全くわからない。なんならロックスターもさいたまスーパーアリーナに来ちゃうかもしれない。これでは憧れなんか育つはずがない。だって行こうと思えば行けるもん。で、実際行かない。遊ぶなら埼玉県内で十分だから。事足りてしまう。特に中高生のうちからわざわざ東京まで行こうという人なんか本当に少ないと思う。埼玉には自分の街が田舎だというコンプレックスすらない。だからこそヘラヘラ「翔んで埼玉」なんか許してるわけで、スーパーアリーナで海外のスターが「トーキョー!」なんて呼びかけても許してるわけで、自分から「だ埼玉」なんて言えたりする。都会への憧れも、ハングリー精神も培われるわけがない。

 

時にシティポップのくくりに入れられていることもあるバンドのなかで、僕はNever Young Beachが大好きだ。誤解を恐れずに言えば、なんかダサいからだ。なんか畳の匂いがするからだ。日本のフォークをルーツにしているから、とか正しく分析している人が他にもいるだろう。なんにせよ僕でもわかるからだ。都会のオシャレさを語られるのが嫌いなわけではない。ただわからないし憧れてもないから理解できない。これは東京出身者にも(埼玉よりさらに)田舎の出身者にも伝わらない話かもしれない。単純にお前にセンスがないだけじゃん、と言われたらそれまでだし、SNS社会、サブスクリプション社会への変化がさらに進んで行けばなんの意味もなくなる議論かもしれないが、都会と地方の格差とシティポップブームが共存している今なら、もしかすると伝わる見込みがあるかもしれないと考えている。東京に行こうと思えば行けるけど、行こうとは思わない。だからいつまでも埼玉はダサいのかもしれない。

 

 

どうでもいいけど

どうでもいいけど

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『青春の逆説』とオードリー若林

毎週、「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いている。もちろん二人とも好きなのだが、特に若林が好きだ。漫才のキャラクターから「春日=変人」であるというイメージが強かったのだが(というか事実なのだが)、若林もまた別のベクトルでいわゆる「変」な人であると知るきっかけになったのは「オールナイトニッポン」と彼のエッセイだった。高校生くらいの時に初めて読んだそのエッセイには、「スタバで『グランデ」と頼むのが恥ずかしい」「食レポでうまいと分かりきっているものを食べて『うまい』と言いたくない」といったものすごく身に覚えのある不満を抱え、先輩や友人から「自意識過剰」と呆れられながら社会に適応していく日々が描かれていた。そのエッセイを読んでから、僕は若林正恭という人に勝手な親近感を描くようになった。

『ナナメの夕暮れ』は、連載エッセイをまとめて書きおろしを追加した書籍だった。「書くことがなくなった」と言う理由で一度休載を申し出、再開後の原稿がまとめられたその内容は、相変わらず些細なことに悩んだり怒ったりしてしまう若林の日常に変わりはなかった。しかし、そこには休載以前には薄かった「諦め」の空気が明らかに漂っていた。身近な人間との別れがその理由であると、若林は自ら分析していた。先輩芸人や父親だけでなく、出演番組やお気に入りの定食屋も自分の人生からいなくなっていく。なんども他人から言われているはずの「気にしすぎだよ、誰もあなたのことをそこまで気にしてないよ」という結論に、今度はようやく自分で近づいていく。

 

涙が止まらなくなった。もしかしたら読みながら流していたカネコアヤノの曲に涙していたのかもしれないし、聴きながら読んだから泣けたのかもしれないし、読みながら聴いたから泣けたのかもしれない。それはどうでもいい。太宰治の本を読んだ時も、ブルーハーツを聴いた時も「これは自分のことだ」と思った。そんな中学生の時と同じ気持ちになって、中学生の時よりずっと激しく泣いた。

 

インスタ映えを気にしすぎているやつはバカだ」というような笑いは、今やありふれたいじり方になっている。「インスタ映え女子してきた笑笑✨」なんて自虐なんだか予防線なんだかわからない文言をつけて、結局いじられ始める前と同じことをしている人もいる。自称「コミュ障」、自称「陰キャラ」が仮想の「クラスの真ん中にいるやつら」を敵視したりモノマネしたりして、仲良くなったりSNSで拡散されたりしている。俺からすればお前らこそ「クラスの真ん中にいるやつら」なんだよ、と言う気力ももうない。自分も誰かからそういう風に言われているんだろうし、自分がいつも日陰者でいたいなんて考えるのはおかしいことだ。ここ数ヶ月でそんなふうに考えるようになって、心の少しやわらかくなった部分に若林の言葉がナナメに突き刺さったのだろう。

 

今日、読むように薦められていた織田作之助の『青春の逆説』を読み終えた。主人公は「自意識過剰で不器用」。他人からはそんな小説を薦められ、自分では若林のエッセイを選ぶ。決して個性的とはいえないひねくれ方をしている人間であるとよくわかった。中学生や高校生の頃に読んでいたら、織田作之助の描く主人公にものすごく感情移入してしまったり、あるいはもう見たくないと目を背けてしまっていたかもしれない。しかし、いまの心境では主人公に寄り添うような気持ちで読むことができた。「気にしすぎだよ、誰もあなたのことをそこまで気にしていないよ」と否応なく知らされるところで小説は終わった。「青春」はそこで終わりだということなのか。それは若林の言う「『自分探し』の終わり」という言葉と同じイメージの結末だった。

 

   自分の生き辛さの原因のほとんどが、他人の否定的な視線への恐怖だった。

   その視線を殺すには、まず自分が”他人への否定的な目線”をやめるしかない。

 

こんなことがエッセイには書いてある。みんなにとっては当たり前なんだろうな。最近気付いたから泣けて仕方なかったよ。同時に「気にしすぎだよ」と言う側の人、いわば「明るいほう」の人である春日を羨ましいしありがたいといえる、二人の関係性もすごく良いなと思う。10年間二人でラジオをやり続けるオードリーのコンビとしての美しさは、やっぱりミックとキース、ヒロトマーシーに並ぶと思うなあ。ラジオではずっとくだらない話をゲラゲラ笑いながらしてるだけで、こんなエッセイの匂いはほとんどしないところもいい。

 

 

なお、若林は自分のような人間を「精神的な童貞」と呼ぶ。『青春の逆説』の主人公は、容姿端麗、頭脳明晰でありながらも精神的、そして肉体的にも正真正銘の童貞だった。文学作品の主人公はやたらにモテまくり、むやみに性交渉を重ねるのが常である。『青春の逆説』はそういった点でも好感の持てる主人公であったことを、明らかに蛇足だろうが付け加えておきたい。(むりやり女の人の手を握って「ものにした!」とか思うんだよ)