2021年12月7日

 ある出版社がオンラインで行う就活イベント、男性の社員が上唇まで見えるくらいマスクをずり下げて画面に現れて、話を聞く気がなくなった。

 

 マスクずり下げ男は、「バチクソ」「ケツ拭く」といったおよそ面接で学生が使うことは考えられないような言葉を使いつつ、くだけた調子で(あるいは無礼な態度で)滔々と話し続けた。

 「『ガクチカ』という言葉があると最近私は知ったんですけども…」という鼻につく前置き*1で司会が無礼な男に学生時代のことを語るように促した。

 「イベントサークル」「短期留学」などを経験したが、そんなことを語るのは意味がないと男は言った。面白い経験を語るのではなく、相手に面白いと思わせることが大切であるというような話に続けて、「僕法学部だったんですけど、全然大学なんか行ってなくて。憲法9条がなんなのかとか、なんにもわからないですからね」と笑った。

 おたくの出版社、一応ジャーナリズム誌も発行されてると思うんですけどね。小さい子どもが読む本も出してるし。憲法に興味ないです、と公言できていいんだなぁ。こんな軽薄な男も新卒一括採用で滑り込めば、不動産業で延命し続ける斜陽業界で「ギョーカイ人」面ができる。本当にうらやましい。男は「仕事で楽しかったことは?」という問いに「乃木坂の可愛い子と会えました」とにやけ面をマスクからのぞかせていた。

 総勢500人超が視聴するライブのチャット欄に投稿した僕の質問は、最後まで取り上げてもらえなかった。うーん、きっと妖怪のせいなのね。

*1:自分たちがそうした「エピソード」を学生に創作させて語らせている、あるいはそうすることをベターなチョイスと学生自身に認識させる慣習の維持に加担しているという認識はないようである。

Charlie Is My Darling

 チャーリー・ワッツが死んでしまった。自分でもびっくりするくらい悲しくて泣いてしまったので、気持ちの整理がてら思い出話を書く。

 

 昨日の夜は、いろいろなことがうまくいかずにイライラしてしまっていて、そういうときに限って嫌なことが重なる。嫌な情報が飛び込んでくることの方が多いのに、なぜわざわざTwitterのタイムラインを眺めていたのかわからないが、とにかくその中にチャーリー・ワッツの訃報があった。

 

 早朝、泥酔したミック・ジャガーがチャーリーに電話をかけ「俺のドラマー!」と軽口を叩いた。しばらくすると髭を剃り、スーツを着て、香水をつけたチャーリーが部屋にやってきて「お前こそ俺のシンガーだろうが」とミックをぶん殴った。…というような話を、ローリングストーンズのファンは童話のように諳んじることができるだろう。頭のおかしいキース・リチャーズにただ一人最後まで付き合い、24時間スタジオでドラムを叩き続けた、とか。僕は完全なる後追いの世代で、そんな話は借りたり買ったりしたCDのライナーノーツや、バンドに関する本や、誰が書いたのかわからないブログから学んできた。セットリストがほぼ60〜70年代の曲で占められているバンドだから、基本的にローリングストーンズにまつわる出来事は「過去にこんなことがあった」という形で知っていたのだ。だから、まさかチャーリー・ワッツの死をリアルタイムで、しかもこんなにあっさりした形で知ることになるとは思いもしなかった。

 訃報以前に知ることができたローリングストーンズのリアルタイムの動きは、「北米ツアーをチャーリー抜きで行う」という二週間くらい前のニュースが最後だった。「チャーリーなしのローリング・ストーンズはありえない」とキースはたびたびインタビューなどで答えていたし、「こんな歳なのにツアーなんておかしい」と言いながらチャーリーも毎回ツアーで演奏していた。それなのにチャーリー抜きでツアー?と不思議に思ったのだが、その理由は「手術後の回復のため」とされていたし、「必ずバンドに戻ってくる」という旨のメンバーのコメントも添えられていた。だから「さすがに歳だし大変なのかな」などとのんきに思っていたのだ。詳しい死の理由などは発表されていないけれど、チャーリー本人や他のメンバーにはこの死は予期されていたのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、著名人の死につきものの「偉大な◯◯、R.I.P.」のフォーマットでチャーリーの死を悼むコメントが流れてくる。チャーリーのことが好きなひとってこんなにたくさんいたんだ。その中の誰にとっても、チャーリーの死を悼む以外にできることはもはや何もなかった。当然一緒に過ごしたり会話したことなど一度もない、外国で暮らすおじいさんの死の報せに対して、わけもわからずいいねボタンを押して(なにが「いいね」なのかわからない、というベタベタな疑問を改めて感じる)、ローリングストーンズの曲を聴きながら涙を流す以外に、できることが何もなかった。

 

 激しく動き回るミックの後ろで涼しげな顔でドラムを叩くチャーリー、という表現はあらゆる時代のローリングストーンズのライブについての文章で読んだが、実際にライブ映像の中のチャーリーはそう表現するほかない控えめな姿だった。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」のセックス担当とドラッグ担当からなるといっても過言ではないグリマー・ツインズに対して、おとなしそう、優しそう(でも偏屈そうでもある)というのがチャーリーのイメージで、インタビューやライナーノーツの中から読み取れる全てだった。

 一度だけ、ローリングストーンズのライブを生で観ることができたのは僕の人生における大切な思い出の一つで、今となってはチャーリー込みのローリングストーンズはもう二度と観られないのだという事実が、その思い出をより特別なものにしている。

 2014年3月4日、東京ドームの三塁側二階席から、当時中学生の僕はローリングストーンズを観た。死ぬほど高いチケットが中学生の小遣いやお年玉程度で買えるわけもなく、父親にお願いして買ってもらったのを覚えている。「メンバーが死んでしまう前に観たいんだ」と頼む僕に対し、父は「死んだらなんか困るんかい」と言った。ものすごく腹が立ったが、生でローリングストーンズを観るために屈辱に耐えた。憧れのロックスターに対して暴言を吐いた父の狼藉を、僕はしばらく根に持っていた。が、息子から高いチケットを突然ねだられて、そんな言葉がついつい出てしまうのは今となっては理解できなくもないし、結果的にローリングストーンズを観られたのは父のおかげだ。

 開演時間から1時間ほど押してライブが始まってみると、ステージはあまりにも遠い。「あの動き」で激しく走り回っているのがミックでギターを持ったゾンビみたいな人がキース(3日公演の初日である2月26日、あまりにもギターが弾けていないキースが「もう死ぬんじゃないか」などと言われていたことを覚えている。僕が観た時は見た目はゾンビだったがギターを弾く姿はかっこよかった)…と信じるしかないような距離感だった。とても大きなモニターにとても大きくメンバーの姿が映し出されていたのだが、今ステージで動き回っている豆粒ほどのゾンビと、モニターに映るキースが同じ人物だという保証がどこにあるんだ。初めてのドームのライブ、「あんまりちゃんと見えない」という落胆と「CDで聴きまくっている憧れのローリングストーンズがここにいる」とはにわかに信じがたい気持ちが混じり合って、「本当にローリングストーンズここにいなくてもわかんないよな」とわけのわからないことを思ったのである。(素人が聞いていてもわかるくらい、ちょくちょく演奏をトチったりミックの歌が外れたりしていたので、最後は「さすがに本物がここにいて演奏しているんだろう」と信じることにした。)

 「サティスファクション」を演奏し終えたあと、前に出てくるのを嫌がるチャーリーがメンバーに引っ張り出されていた。横並びの豆粒だったが、シャイでかわいいおじいさんだと思った。ミックやキースやロニーより、チャーリーの姿が印象深かった。なんてイメージ通り、いや、イメージ以上にチャーミングな人だ。「次の日の公演ではゲストで布袋寅泰が一曲ギターを弾いた」と聞き、なんだか損した気分になったこととあわせて、この日のライブのことは大切な思い出だ。僕の人生でただ一度、ローリングストーンズと同じ空間にいられた日の記憶である。

 

 あれから7年半経った。何度も脱退が噂され、ツアーなんて嫌だとツアーのたびに言い続けたチャーリー・ワッツは、結局死ぬまでローリングストーンズのメンバーだった。豆粒サイズの距離以上に近づくことはなかったが、僕も死ぬまでチャーリーとローリングストーンズのファンだと思う。「自分はジャズドラマーでたまたま世界一のロックバンドにいるだけ」と公言していたチャーリーが、ミックやキースやロックンロールやツアーから解放されたチャーリーが、安らかに眠ることを願ってやまない。

 

 

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ミーハーなので芥川賞受賞作を速攻で読みました

破局

破局




  気になるな、読みたいなと思っていたら芥川賞を獲ってしまった。ミーハーと思われるのが嫌だから読まない、と文庫化まで待っているのももったいないので、受賞発表翌日に買いに行く。帯に「芥川賞候補作!」の文言。もう獲ったよ、と思いながら持って帰り、開いてみるとかなりスルスル読める。インタビューで本人が語っていたのだが、余計な修飾語を意識的に省いているらしい。「ニヒリズムの極北」と称されていたが、なるほど確かに、ハードボイルドっぽい淡々とした読み心地だった。

  作家本人の風貌や会見の態度から「いけ好かない」感を強く受けたが(なんかかっこいいんだもん)、作品の内容も大して何にも心が動かないけど二人の女からモテてます、求められすぎて困ります、といけ好かないと言えばいけ好かない。しかし、主人公はラガーマンで、強靭な肉体と公務員試験を難なくパスする社会適合者っぷり(宣伝文句にある「リア充」「キャンパスライフ」の表現はダサい)で、そうした対外的なステータスと理屈っぽくて気持ち悪い内面描写のミスマッチが面白かった。作家自身はヒョロヒョロで、スポーツをしていたなどという経歴は確認できないのだけど、どこかに取材したものなのだろうか。

  一人称の物語ではあるが、主人公は自身の感情に対しても無関心、もしくは把握できていない様子で、妙に淡々としている。かなり変人度合いが強い男に思えるが、それをことさらに強調したりもしない。自称変人にろくな奴はいないし、大体はつまらない凡人がそういうアピールをするものだからとても納得いく変人っぷり。作家本人がそうした美学に基づいてこういう演出をしているのか、単に本人が変人なのか、会見での態度について「作品のイメージを損いたくないからはしゃぐのはおかしいと思った」と語っていたところからみるに、意図的なプロデュースではないかと思う。

  徹底的なディスコミュニケーションと言うべきか、主人公以外の人物も何を考えているのかわからない。二人のヒロイン(?)の麻衣子、灯ともに長々と話をする場面があるが、何が言いたいのかさっぱりわからない。小説という形で会話をつまみ食いしている読者には当然のこと、主人公にもそれがわからない。自分のことさえわからないのに、どうやって他人のことがわかるのか。小説自体も誰の思想を明確に語るわけではなく、また登場人物たちも心情を吐露するようなことはしない。唯一の例外として、友人の「膝」(なんだこの名前)だけが、やたらに熱い思いを語りまくる。が、かえって薄ら寒いというか、軽薄な印象さえ与える。他人にわかってもらいたいとも思えないし、他人のことがわかるはずもないのだということを構造で訴えているのだとしたら、確かにニヒルだ。スマホSNSの描写は一切ない割に今日的な印象を受けるのは思い込みだろうか。

  マッチョなラガーマンというステータスと内面描写が相反するところに面白みを感じると先に書いたが、勝手に線を引いて「悩みがなさそう」と分類してしまう人にだって、当然内面の葛藤があっておかしくない。一人称視点で描かれるからこそ奇妙な人物に写るだけで、我々の身近にいるスポーツマン(ないし「陽キャ」。この表現嫌だけど)だって心の中ではこんなふうにいろんなことを考えているのかもしれない。筋骨隆々、性欲旺盛のマッチョマンよりも、内面の混乱を外に漏らし、その時々の感情の乗り物になってしまう自分の方こそ動物っぽいのかもしれない。作家本人もシュッとしたサブカルイケメン、演技派俳優みたいな雰囲気なのに、こんな気持ち悪い小説を書くのか、やはり他人のことなんてわからない……という結論に着地させられてしまうあたり、「ニヒリズムの極北」は言い得て妙なのかもしれない。       

  『コンビニ人間』『限りなく透明に近いブルー』をフェイバリットに挙げていた遠野遥さん、僕も似たようなの好きですし、『破局』も楽しく読めました。

その声は

2020年7月6日


  「マクドナルドの女子高生」という言葉は、特にSNSで語られる作り話の定番になっている。元々は、風刺的な内容のいかにもウソ臭いツイート等に頻出していることを面白がられてネタにされていたはずだが、今では「マクドナルドで女子高生と老人がエネルギー弾を撃ち合って」とか「マクドナルドで女子高生がドイツの友人と拍手喝采」のように、初めから丸っきりウソである前提でいかにシュールな内容にできるか、という大喜利のお題のようになっている。こうなると、特定のユーザーにのみ通用するスラングや頻出ワードのコラージュになってしまい、稚拙な「ナンセンス」というかノーセンスのオンパレードで全く面白くない。


  「このご時世」と言うだけで通じてしまうくらい、社会全体が明らかな異常事態(緊急事態はもう終わり)の中にある。図書館や自習スペースもその煽りを受け、今も着席しての利用は制限されている。僕は自室で集中するのが難しいので、そうしたただ座っていても良い場所が使えないのは困った事態だ。パソコンを使おうとしなければ河原のベンチや寺社の境内でも事足りることに気づき、たまに散歩を兼ねてそうした場所に出かけていたのだが、次第に厳しくなる日差しや増えていく虫、あるいは一日中降り続く雨など、季節の移ろいとともにストリートライフの障害が増えてきた。そこで、新天地を探すことにした(徒歩なので運動も兼ねている)。収入が大幅に減ったのもあり、お金は節約したい。しかし家でも屋外でもないところで腰を落ち着けて作業ないし読書がしたい。


  安くて長居できるお店として、まず浮かんだのはおなじみのマクドナルドだ。100円でコーヒーなりシェイクなりを買い、何時間か店内に居座ることは可能だが、なにぶん騒がしかった。それこそ高校生、どころか中学生までいる。学校は休みか短縮授業なのだろう。それに加えてご老人の集団が集まっていることもある。爆音で笑うティーンガールズとおばあちゃま方は幸せそうで、先行きの見えない不安を忘れ去れてくれるかもしれないが、イヤホンを貫通するくらいの音量になるとこちらが不幸になってしまう。価格が安すぎるのもあってか、店舗によってはオラオラした人たちが多い場合もある。中学生だろうが高校生だろうがもうだいぶ歳下だと思うが、未だにヤンキー風な集団は怖い。こうなると読者どころではない。でも、マクドナルドの店内で流れている音楽は良かった。


  今はドトールに落ち着いている。いつも275円のアイスコーヒー(M)を頼み、近くに誰もいなさそうな席に座る。人と人との距離を空けるべし、というウィルス対策。騒がしくない場所で集中できるように、ストレス対策。しかし今日は出会ってしまった。ドトールでコーヒーを飲んでいる女子高生。ウソではない。


  二つ隣のテーブルに、女子高生が二人横並びに座っている。僕も二人も、壁を背にした席に座っているので顔はよく見えない。覗き込んで通報されても嫌なので、あまり見ないようにしていた。しかしその話は嫌でも耳に入ってきて気になってしまう。どうやら二人は美術部らしいのだが、部員の悪口もほどほどに、「どんだけ前世で徳積んだらローラの家の飼い猫になれんねん」とか、「学校でツイステ流行らせたの誰やねん、私がAKIRA布教しても誰も見いひんのに」とか、「しょうもないストーリーばっか上げんなやこいつ」とか、なんだか気持ちがわかるような話が続いている。卑屈なユーモアと、でも自分の趣味はイケてるぜ、という自負。二つ隣のテーブルに座る僕は、未だに女子高生と同じレベルなのかもしれないと思った。


  よく喋る方の子がヒートアップし始め、もう一方の子がうんうん、と相槌を打っている。聞いている方の子も嫌々付き合ってあげてる、という感じでもなく楽しんでいるように聞こえた。が、実際は違うのかもしれない。男性から見る女性と、女性から見る女性の像はしばしば食い違っている。どれだけ共通認識にしようとしても、限界はあるのだろう。「男は騙されるけどああいう女はクソ」みたいな話はやはり盛り上がるのだろうし、「人による」と切り捨ててしまうのも野暮な気がする。その場の誰かが傷つくわけでもないなら、男と女の違いくらい話題になっても良いんじゃないか。二つ隣のテーブルの二人も「女の言う『かわいい』なんか信用ならん」と、こすり倒されてビリケンさんの足くらいピカピカに光っている話をしている。盛り上がる話は何回もこすれば良い。落語もDJもこすりまくりだ。コマゲン。実際は「男の言う〇〇と同じくらい」ともう少し下品な表現もされていたのだが、名誉のためにカットした。


  彼女たちが(というかヒートアップしている方の子が)話している内容は、要するに「スクールカースト上位」とか「陽キャ」とか言われるような同級生たちへの嫉妬や恐れで、それは僕も未だに引きずっている感情だった。我々が陰キャ/陽キャなどというしょうもないカテゴライズに拘泥しているうちに、眩しい人々はどんどん前進していってしまうのだぞ、クラス全員AKIRA大好きで、インスタのストーリーも「しょうもなくない」やつばかりを上げていたら、それはそれでつまらないんじゃないか?と言いたくなったが、さすがにやめた。彼女たちが「山月記の虎は陰キャ」と突然、いかにも放課後の高校生が言ってそうなことを言う。虎にもなれない男は、二つ隣のテーブルで本を読んでいる。


  よく喋る子が、あくまで陽気な様子ではあったが「同じ歳くらいの人の上手い絵は見られない」と言った。もっと歳上の人ならまだしも、歳が近い人の絵は自分と比べてしまってしんどい。そうかぁ、そこはもうあんまり共感できなくなってきたかもしれない。最近、「十代の天才コンプレックス」のようなものは克服しつつある。カツオやワカメはおろか、越前リョーマも玄野計も黒崎一護もみーんな歳下になった。「鬼滅の刃」「青のフラッグ」「呪術廻戦」ぜーんぶ主人公が歳下になった。そもそも「少年」ではないけど、未だに少年ジャンプ大好きだからすぐジャンプで例えちゃうもんね。今なんかビリーアイリッシュ18)のTシャツ着ちゃってるもんね。


  これは成長なのか諦めなのか、わからない。多分どちらも正解で、どちらでも思いたいように思っておけば良いのだろう。氷が溶けて、アイスコーヒーがだいぶ薄くなってしまった。僕がビリーやドトールの女子高生たちと同じ歳の頃にも、二つ隣のテーブルには虎もどきが座っていたのだろうか。声はかけたりせずに、黙って薄いアイスコーヒーをすすっていたのだろうか。キモーい。


ボビー・フィッシャーを探して (字幕版)

ボビー・フィッシャーを探して (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
歳下の天才コンプレックス刺激映画。今なら観られるけど。

『4』を観た後で改めて観る『トイ・ストーリー3』

 先日の金曜ロードSHOW!で『トイ・ストーリー3』を観た。大きくなってから観るウッディたちの物語にはいろいろ思うところもあり、素直には称賛できなかった。とはいえ、クライマックスではしっかり大泣きしてしまった。

 どこで泣くかと言えば、アンディが大好きだったおもちゃを譲る場面だったり、家を出ていくアンディにお母さんが感極まってしまう場面だったりして、そうしたシーンにはいつも人間が出てくる。しかし、これはウッディたちの冒険があってより増幅される感動だ。当然のことながら、我々の生きる世界では捨てられるおもちゃがそれに抵抗して逃げたりはできない。「人格を持つおもちゃ」として、来るべき別れを先延ばしにして抵抗するウッディの姿は、どこかで諦めなければならないことがわかりながらも諦められない我々の理想、あるいは青臭さや愚かさと重なってしまう。昔遊んでいたおもちゃを捨てづらいと思う気持ちを、おもちゃ側を主体にして描いてるだけだから重なるというよりはそのまんまとも言えるかもしれない。そうしたナイーブな感傷を「アンディの子供時代の終わり」という形で描写する。捨てたおもちゃがグチャグチャになって溶かされる前に逃げていてくれたら嬉しいし、別の子に譲ったとしたらその子に大事にされておもちゃたちも満足していてほしい。最終的な着地としてとても優しいし、ノスタルジーを感じて泣いてしまうが、綺麗事と言えば綺麗事だ。改めて『3』を観てみると、『4』で今作の結末をひっくり返したのも意義のあることのようにも思える。『3』と『4』の間の9年間で、消費されていくモノへの考え方が大きく変わったことを考えれば、ディズニー/ピクサーがそこをアップデート(というか訂正)しないわけがない。

 おもちゃはアンディの友達としてそばにいるべきである、遊ばれなくなるとしてもアンディが帰ってくる家で(そこが屋根裏部屋であろうと)アンディに再び手に取ってもらえる日を待つべきだという自分の理想を周りのおもちゃたちに押し付けてしまうウッディ。『4』での変節も含めて、彼が一番「アップデート」の犠牲になっているのかもしれない。「俺がついてるぜ」をアンディにも他のおもちゃにも同時に押し付けようとすれば、当然無理が生じてしまう。今回一番大きいのは、ウッディだけはアンディに連れて行ってもらえることがわかっているところ。何年も遊んでもらっておらず、実際ゴミとして捨てられる危機を冒頭で経験してるウッディ以外は、新天地で別の子供に遊んでもらおうとするのは当然である。たまたまサニーサイドが危ない場所だったために、ウッディの言うことは間違ってなかったかのように納得させられているけど、『4』でのウッディの選択こそが『3』でウッディ以外のおもちゃたちが取ろうとして、しかもウッディが頭ごなしに否定していた選択。そして、『4』で必死にウッディが救おうとするフォーキーが言う「自分はいずれ飽きられ、捨てられるゴミである」という言葉は、『3』の救いようのない悪役であるロッツォがサニーサイドのおもちゃたちに投げつける言葉と同じ。フォーキーのことは救い、ロッツォは(一度は救おうとしているし、自業自得ではあるが)見捨てる。全てがウッディの一存。おもちゃでありながらおもちゃの運命を上から握ろうとする点において、ウッディだけが人間に接近しすぎている。『3』での他のおもちゃたちはあくまでも「遊ばれること」に自分たちの価値を見出していた一方で、ウッディだけがアンディの「友達」であることに固執する。この辺の危ういバランスが、サニーサイドとロッツォのダークさで力ずくで帳尻合わせされているように感じた。一人でいたくない(それを「みんな一緒だ」という言葉で正当化していようと)という理由で他のおもちゃを巻き込んでいる点では、ウッディとロッツォも本質的に同じだ。あくまで「モノ」でしかなく、壊れたり捨てられたりすることはあっても年老いて死んでいくことはない(それはアンディの犬が老いぼれているのとは対照的でもある)おもちゃが明確な人格を持っている、というグロテスクな設定がある以上、彼らはおもちゃであることをやめて人間になるか、あるいは手を取り合ってモノとして溶かされることを受け入れるしかない。

 ウッディが人間性を強烈に体現するとすれば、バズはその逆。前作に続いて強烈にモノ性を体現する。電池ブタの中にあるスイッチ一つで、これまでの記憶が飛んで敵の手先になってしまったり、スペイン語を話す別人格になってしまったりする。『2』における「同じ形で友達であっても区別がつかない別の個体がたくさんいる」という描写に引き続いて、おもちゃの「交換可能な消費財」という側面を強調する役割。例えどれほどおもちゃ同士、あるいは持ち主の子どもがおもちゃをかけがえのないものと思っていたとしても、実際のところは遊ばれなくなって忘れられていくものでしかない。いくらでも替えがきき、選ばれるか選ばれないかで運命が変わってしまう。選ばれないことへの恐怖や怒りは、シリーズに一貫して敵役の行動原理にもなっている。というか、作中全てのおもちゃが冒険をする理由でもある。

 

 

 開始早々に展開される列車のシーンのように、ごっこ遊びをするときに我々は人形に何かしらの役を与える。ボニーのおもちゃたちが言っていたように、彼らもまたそれを「演技」と捉えている。これは作品全体の構造も同じだ。おもちゃに付されている役柄(例えばウッディとジェシーとブルズアイは同じアニメの中の仲間で、バズ・ライトイヤーはザーグと戦うヒーロー、というような)は、子どもの想像力によって改変されたり無化されたりする。アンディの世界では、ウッディとバズが荒野で共闘しても良いし、ザーグとバズが友達だったとしても問題ないのである。そして、人間の目のないところではおもちゃたちも与えられた「役」を脱して、自らの意思で行動する。

 自分に与えられた「役」(あるいは運命と言っても良い)を時に受け入れ、時に逆らいながら生きていく。この点ではおもちゃも人間も同じだ。アンディはもはや「ちびっ子」ではないし、アンディのお母さんも家でアンディの世話を焼く必要はなくなる。つまり、「子」「母」といった「役」の性質が変化していくのを目の当たりにする時、我々の心は揺さぶられる。これまで「保安官」や「宇宙飛行士」という「役」を与えてきたおもちゃたちに、最後は「別の子どもの元で幸せに過ごす」という新たな「役」を与えて彼らを手放す。これは人間側のエゴとも言えるし、辛い別れを乗り越えるための救いとも言える。あのとき手放したおもちゃが、満足そうな顔で自分の背中を見ていてくれていたと信じたい。そんな夢物語のピースとなることが、最も大きい枠組み(つまり映画シリーズとしての「トイ・ストーリー」)の中でウッディたちに与えられた「役」である。だから、我々はこれまでと別の世界に旅立つウッディたちに感動して涙しながらも、おもちゃに対して感じる申し訳なさに近い感情を(実際は意思もなく反論もできないことを良いことに)正当化しているだけ、最後まで我々はごっこ遊びで勝手な役柄をおもちゃに押し付けているだけとも言える。だから、子どもに与えられたわけでも箱の裏に書かれていたわけでもないバズとジェシー(あるいはケンとバービー)の間の恋愛は、制作側の意図で付与されていることで逆に強烈におもちゃたちの非人間性を強調しているとも言える。より大きな力によって操作されている彼らの感情は、製作者の意図によっても、電池ブタの下のスイッチによっても容易にリセットされてしまうからだ。この「人格を持ったおもちゃの恋愛感情」は、『4』においてはウッディの心変わりの要因という形へと変化していく。

 

 

 『3』の結末はなんだったんだ、と『4』を観て腹が立ったのは、ウッディたちに対して、時が進まないドタバタ喜劇の世界にいてほしいという思いもあったせいなのかもしれない。環境問題への意識の変化から、もはや「誰かがずっと大事にし続けてくれる」というリユースの夢物語の中だけにおもちゃを閉じ込めておくことは不可能であり、おもちゃも限りある資源としてリサイクルされ、リデュースの取り組みの中で(それこそ無数に棚に並べられていた『2』のバズ・ライトイヤーのように)むやみに生産されるべきではない。となれば、サザエさんリユース世界にはウッディたちはいられない。人間に接近し続けながらも『3』のラストで非人間となったウッディは、『4』ではもはや人間になるしかなかった。さもなくばバラバラにされてリサイクルされるしかない。一方、「自分の心の声に従え」と言われたバズが『4』でものすごく間抜けに見えてしまったのは、「スペースレンジャーで、いつも子どものそばにいて、ウッディの良き相棒」という「役」を外されてしまったからだろう。よりどころとなる「役」を失い、かといって人間になることもできないまま、自分に備え付けられたスピーカーの声をヒントに動くバズの姿も、「おもちゃに人格がある」という設定のグロテスクさを表現する役割を担い続けていた。

 

 ノスタルジーの正当化を図った『3』と、環境問題の中に人格を持ったおもちゃを置く残酷さと向き合って見せた『4』。改めて『3』を見返すことで、なんだか『4』にも少し納得できたような気もする。作中の世界でも、そして現実の世界でも、人間の都合で運命を左右されているという点では彼らは何も変わっていなかった。ただその着地が、「公園で不特定多数の子どもに遊んでもらうことを良しとする」のならサニーサイドと同じだし、散々みんなを振り回してきた「一人の子どもの友達であるべき」をあっさり捨ててしまったのも、いや散々みんなに言われてただろ、と言いたくもなる。『3』の時点ではウッディは変わらずアンディのお気に入りではあり、大切にされなくなる実感が薄かったのかもしれない。いざ自分もそうなってみれば、ずっと前に他のおもちゃが言っていたのと同じことを言い始める。やはりウッディだけは最初から強烈に人間だった。

 

君はともだち

君はともだち

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『彼女は頭が悪いから』を読んだ

 もう前のように大学に通うことはできないのかもしれないけれど。

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

 とにかく胸糞悪い。それだけのリアリティを伴う作品ということだろうか。そして自分自身はそうでなくても(と信じていても)、作中に描かれるクソガキどもと同じような考え方の人間が、実際に存在しても不思議ではないと、心当たりがあるからこその不快感なのか。

 家庭の経済状況が学歴と相関関係がある、という研究(

https://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/pdf_seika/h28/nier_dps_008_201803.pdfとか)

も記憶に新しいが(気になったら探してみてください)、生まれた家が裕福で、幼い頃から熱心に勉強、スポーツ、芸術においてあらゆる機会を与えられ、当然の如く東大に進学するような人間に、自分たち以外の人間、すなわち「東京大学の学籍を有していない人間」を想像する力はあるのか?実際の事件に着想を得たフィクションである、と断られてはいるものの、「東京大学」と名前がそのまま使われている以上は、どうしても現実の世界と物語とを接続して考えざるを得なかった。作中で事件を起こした東大の学生たちが、どうやって何事も要領よくこなせてお金にも困らず、将来が約束された自分たちのようでない人のことを想像することができるのだろうか。彼らの学力やスキルは当然ある程度の「努力」を通じて獲得されたものであると同時に、家庭環境や経済状況にも大いに助けられているという事実について思いを巡らせることができないのは彼らだけの責任なのであろうか。))

 子を思う親の気持ち、親のプライド、子が犯した罪の重さを認識できない親の描写も暗い気持ちにさせられた。大学生の息子や娘が、親の目の届かないところで何をしているかきちんと把握している親がどれほどいるのだろうか。そして把握しているとすればそれは正しいことなのだろうか。一個人として、あるいは一人の女性として被害者に寄り添える登場人物が描写されていたことが、唯一と言って良いほどのフィクション性、もっと言えばご都合的に登場するものと思えた。そのご都合的描写がなくては、読後にもっと落ち込んでいたかもしれない。どのような取材をもとにした描写なのか、読んでいて嫌になるような「リアリティ」(「リアル」とは言わない、実際東大がどんなところなのかは知らないから)の描写の連続。やや手垢のついたインターネット描写が気にはなったが、でも実際インターネットのバカってこんな感じだよね、と本筋と離れたところでも暗い気持ちになる。これも(もちろん取材に基づいているとはいえ)想像力。相手がどういう気持ちになるかを考えるのも想像力。自分たちみたいに要領が良くない人のことを考えるのも想像力。でも、何を言っても恵まれた側にいることは間違い無いであろう僕が、この本を悔しくて腹が立って、何回も閉じながらまた開いて、涙目になりながら読み終えたことはなんなのか。欺瞞でしょうか。結局エンターテイメントなのでしょうか。共感できるフリをして満足しているだけなのでしょうか。

 『万引き家族』『パラサイト』といった、社会に存在する貧困、格差を描いた映画作品が「人気作」として話題に出ることも度々あり、またこの『彼女は頭が悪いから』自体も「東京大学生協で最も売れた作品」と帯でPRされている。作中に描かれるような東大生がこの本を読んだとして、それでも「この女が悪いじゃん」と言うのだろうか。もっと恐ろしいのは、『万引き家族』や『パラサイト』や『彼女は頭が悪いから』を通して、「自分に与えられた環境は当然のものではないのだと思った」「学歴とは関係なく人として大切なものがあると思った」などと、いわば「正解」の感想を述べることだって十分に考えられるということ。彼らは頭が良いのだから。登場人物の気持ちを四択の中から選ぶのが、日本で一番得意な人間の集まりなのだから。

 

漂白するな

https://filmarks.com/movies/20292/reviews/73577549


YouTubeのコメント欄で「やっぱ金属バットですわ」「生ぬるいお笑い芸人蹴散らしてくれ」って言ってたやつら、どこ行った?「こんなネタで笑ってる人の感性を疑う」「客までクソだらけ」って言われてるけど。7年前のネタを掘り返されて炎上するのは、それこそ「表現の不自由」って言われてるものの存在を感じなくはないけど、それとは別にいわゆる「お笑いファン」たちはやっぱり自己批判できないんだなと思うよ。「笑ってしまってたけどこれはやっぱりダメだったね」もなければ「笑っていた自分の感性は正しいと思う」もない。「ガタガタうるさいやつなんか無視してぶちかましてほしい」「何にでも文句言われてしまう時代でかわいそう…」なら、クソだけどまだ良い方だよ。自分のスタンスを提示しないのがクールっていういつもの姿勢でダンマリか、あるいはもう別のアングラ芸人に鞍替えしましたか?


ミンストレルショーから、あるいはもっと前から「何を笑って良いのか?」という疑問は確実にあったはずだけど、ここ数年明らかにその問いが大きくなってきている。のに、それはあまりテーマにならない。お笑い芸人がサブカルバカの慰みものにされてるのが良くないんだろうな。マンガのキャラクターみたいに勝手に自分の理想を重ねて、漫才師をアイドルかマスコットみたいにしてるみたいなのが。かっこよく撮られた芸人の写真と一緒にクイックジャパンのインタビュー読んで「感動した!」みたいなこと言ってるやつ。その写真iPhoneで撮ってSNSのアイコンにしてるみたいなやつ。bio欄に「四千頭身🧑🏻👶🏽👦🏻/和牛🐮 川西さんと結婚したい」みたいなこと書いてるやつ。「好きなお笑い芸人」を、カバンにつけてるストラップかなんかだと思ってるやつ。いつも非難の言葉を投げつける先を探してる人に「こんなネタで笑ってるなんてクソだ」って言われても言い返す言葉なんかあるわけないよな。だってそのうちストラップなんか付け替えるもんな。「金属バット/Aマッソ」って書いてたやつも同じなんだよ。「尖ってる」とかわけわかんない言葉で褒めるわりに、自分にはなんの思想も信条もないんだろ。理不尽とも言える非難を受けても、それに打ち返すだけの言葉がないんだもんな。


学祭の実行委員のアカウントに「差別芸人の金属バットを呼ぶなんてどういうつもりですか?」ってわざわざクレーム入れに行ってる人がいる。この人のことはすごく嫌いだけど、どうやったらその人にきちんと反論できるんだろうか。自分にはわからない。散々悪口を書いたけど、それは全部自分のことだ。席に座って笑ってるだけで良かった幸せな時代は終わったんだろう。坂上忍宮根誠司がこの問題について適当なことを言っているのを見てしまったら、リモコンを投げてしまうかもしれない。どうしてこいつらは「お昼の顔」なんだよ。