『4』を観た後で改めて観る『トイ・ストーリー3』

 先日の金曜ロードSHOW!で『トイ・ストーリー3』を観た。大きくなってから観るウッディたちの物語にはいろいろ思うところもあり、素直には称賛できなかった。とはいえ、クライマックスではしっかり大泣きしてしまった。

 どこで泣くかと言えば、アンディが大好きだったおもちゃを譲る場面だったり、家を出ていくアンディにお母さんが感極まってしまう場面だったりして、そうしたシーンにはいつも人間が出てくる。しかし、これはウッディたちの冒険があってより増幅される感動だ。当然のことながら、我々の生きる世界では捨てられるおもちゃがそれに抵抗して逃げたりはできない。「人格を持つおもちゃ」として、来るべき別れを先延ばしにして抵抗するウッディの姿は、どこかで諦めなければならないことがわかりながらも諦められない我々の理想、あるいは青臭さや愚かさと重なってしまう。昔遊んでいたおもちゃを捨てづらいと思う気持ちを、おもちゃ側を主体にして描いてるだけだから重なるというよりはそのまんまとも言えるかもしれない。そうしたナイーブな感傷を「アンディの子供時代の終わり」という形で描写する。捨てたおもちゃがグチャグチャになって溶かされる前に逃げていてくれたら嬉しいし、別の子に譲ったとしたらその子に大事にされておもちゃたちも満足していてほしい。最終的な着地としてとても優しいし、ノスタルジーを感じて泣いてしまうが、綺麗事と言えば綺麗事だ。改めて『3』を観てみると、『4』で今作の結末をひっくり返したのも意義のあることのようにも思える。『3』と『4』の間の9年間で、消費されていくモノへの考え方が大きく変わったことを考えれば、ディズニー/ピクサーがそこをアップデート(というか訂正)しないわけがない。

 おもちゃはアンディの友達としてそばにいるべきである、遊ばれなくなるとしてもアンディが帰ってくる家で(そこが屋根裏部屋であろうと)アンディに再び手に取ってもらえる日を待つべきだという自分の理想を周りのおもちゃたちに押し付けてしまうウッディ。『4』での変節も含めて、彼が一番「アップデート」の犠牲になっているのかもしれない。「俺がついてるぜ」をアンディにも他のおもちゃにも同時に押し付けようとすれば、当然無理が生じてしまう。今回一番大きいのは、ウッディだけはアンディに連れて行ってもらえることがわかっているところ。何年も遊んでもらっておらず、実際ゴミとして捨てられる危機を冒頭で経験してるウッディ以外は、新天地で別の子供に遊んでもらおうとするのは当然である。たまたまサニーサイドが危ない場所だったために、ウッディの言うことは間違ってなかったかのように納得させられているけど、『4』でのウッディの選択こそが『3』でウッディ以外のおもちゃたちが取ろうとして、しかもウッディが頭ごなしに否定していた選択。そして、『4』で必死にウッディが救おうとするフォーキーが言う「自分はいずれ飽きられ、捨てられるゴミである」という言葉は、『3』の救いようのない悪役であるロッツォがサニーサイドのおもちゃたちに投げつける言葉と同じ。フォーキーのことは救い、ロッツォは(一度は救おうとしているし、自業自得ではあるが)見捨てる。全てがウッディの一存。おもちゃでありながらおもちゃの運命を上から握ろうとする点において、ウッディだけが人間に接近しすぎている。『3』での他のおもちゃたちはあくまでも「遊ばれること」に自分たちの価値を見出していた一方で、ウッディだけがアンディの「友達」であることに固執する。この辺の危ういバランスが、サニーサイドとロッツォのダークさで力ずくで帳尻合わせされているように感じた。一人でいたくない(それを「みんな一緒だ」という言葉で正当化していようと)という理由で他のおもちゃを巻き込んでいる点では、ウッディとロッツォも本質的に同じだ。あくまで「モノ」でしかなく、壊れたり捨てられたりすることはあっても年老いて死んでいくことはない(それはアンディの犬が老いぼれているのとは対照的でもある)おもちゃが明確な人格を持っている、というグロテスクな設定がある以上、彼らはおもちゃであることをやめて人間になるか、あるいは手を取り合ってモノとして溶かされることを受け入れるしかない。

 ウッディが人間性を強烈に体現するとすれば、バズはその逆。前作に続いて強烈にモノ性を体現する。電池ブタの中にあるスイッチ一つで、これまでの記憶が飛んで敵の手先になってしまったり、スペイン語を話す別人格になってしまったりする。『2』における「同じ形で友達であっても区別がつかない別の個体がたくさんいる」という描写に引き続いて、おもちゃの「交換可能な消費財」という側面を強調する役割。例えどれほどおもちゃ同士、あるいは持ち主の子どもがおもちゃをかけがえのないものと思っていたとしても、実際のところは遊ばれなくなって忘れられていくものでしかない。いくらでも替えがきき、選ばれるか選ばれないかで運命が変わってしまう。選ばれないことへの恐怖や怒りは、シリーズに一貫して敵役の行動原理にもなっている。というか、作中全てのおもちゃが冒険をする理由でもある。

 

 

 開始早々に展開される列車のシーンのように、ごっこ遊びをするときに我々は人形に何かしらの役を与える。ボニーのおもちゃたちが言っていたように、彼らもまたそれを「演技」と捉えている。これは作品全体の構造も同じだ。おもちゃに付されている役柄(例えばウッディとジェシーとブルズアイは同じアニメの中の仲間で、バズ・ライトイヤーはザーグと戦うヒーロー、というような)は、子どもの想像力によって改変されたり無化されたりする。アンディの世界では、ウッディとバズが荒野で共闘しても良いし、ザーグとバズが友達だったとしても問題ないのである。そして、人間の目のないところではおもちゃたちも与えられた「役」を脱して、自らの意思で行動する。

 自分に与えられた「役」(あるいは運命と言っても良い)を時に受け入れ、時に逆らいながら生きていく。この点ではおもちゃも人間も同じだ。アンディはもはや「ちびっ子」ではないし、アンディのお母さんも家でアンディの世話を焼く必要はなくなる。つまり、「子」「母」といった「役」の性質が変化していくのを目の当たりにする時、我々の心は揺さぶられる。これまで「保安官」や「宇宙飛行士」という「役」を与えてきたおもちゃたちに、最後は「別の子どもの元で幸せに過ごす」という新たな「役」を与えて彼らを手放す。これは人間側のエゴとも言えるし、辛い別れを乗り越えるための救いとも言える。あのとき手放したおもちゃが、満足そうな顔で自分の背中を見ていてくれていたと信じたい。そんな夢物語のピースとなることが、最も大きい枠組み(つまり映画シリーズとしての「トイ・ストーリー」)の中でウッディたちに与えられた「役」である。だから、我々はこれまでと別の世界に旅立つウッディたちに感動して涙しながらも、おもちゃに対して感じる申し訳なさに近い感情を(実際は意思もなく反論もできないことを良いことに)正当化しているだけ、最後まで我々はごっこ遊びで勝手な役柄をおもちゃに押し付けているだけとも言える。だから、子どもに与えられたわけでも箱の裏に書かれていたわけでもないバズとジェシー(あるいはケンとバービー)の間の恋愛は、制作側の意図で付与されていることで逆に強烈におもちゃたちの非人間性を強調しているとも言える。より大きな力によって操作されている彼らの感情は、製作者の意図によっても、電池ブタの下のスイッチによっても容易にリセットされてしまうからだ。この「人格を持ったおもちゃの恋愛感情」は、『4』においてはウッディの心変わりの要因という形へと変化していく。

 

 

 『3』の結末はなんだったんだ、と『4』を観て腹が立ったのは、ウッディたちに対して、時が進まないドタバタ喜劇の世界にいてほしいという思いもあったせいなのかもしれない。環境問題への意識の変化から、もはや「誰かがずっと大事にし続けてくれる」というリユースの夢物語の中だけにおもちゃを閉じ込めておくことは不可能であり、おもちゃも限りある資源としてリサイクルされ、リデュースの取り組みの中で(それこそ無数に棚に並べられていた『2』のバズ・ライトイヤーのように)むやみに生産されるべきではない。となれば、サザエさんリユース世界にはウッディたちはいられない。人間に接近し続けながらも『3』のラストで非人間となったウッディは、『4』ではもはや人間になるしかなかった。さもなくばバラバラにされてリサイクルされるしかない。一方、「自分の心の声に従え」と言われたバズが『4』でものすごく間抜けに見えてしまったのは、「スペースレンジャーで、いつも子どものそばにいて、ウッディの良き相棒」という「役」を外されてしまったからだろう。よりどころとなる「役」を失い、かといって人間になることもできないまま、自分に備え付けられたスピーカーの声をヒントに動くバズの姿も、「おもちゃに人格がある」という設定のグロテスクさを表現する役割を担い続けていた。

 

 ノスタルジーの正当化を図った『3』と、環境問題の中に人格を持ったおもちゃを置く残酷さと向き合って見せた『4』。改めて『3』を見返すことで、なんだか『4』にも少し納得できたような気もする。作中の世界でも、そして現実の世界でも、人間の都合で運命を左右されているという点では彼らは何も変わっていなかった。ただその着地が、「公園で不特定多数の子どもに遊んでもらうことを良しとする」のならサニーサイドと同じだし、散々みんなを振り回してきた「一人の子どもの友達であるべき」をあっさり捨ててしまったのも、いや散々みんなに言われてただろ、と言いたくもなる。『3』の時点ではウッディは変わらずアンディのお気に入りではあり、大切にされなくなる実感が薄かったのかもしれない。いざ自分もそうなってみれば、ずっと前に他のおもちゃが言っていたのと同じことを言い始める。やはりウッディだけは最初から強烈に人間だった。

 

君はともだち

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