『彼女は頭が悪いから』を読んだ

 もう前のように大学に通うことはできないのかもしれないけれど。

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

 とにかく胸糞悪い。それだけのリアリティを伴う作品ということだろうか。そして自分自身はそうでなくても(と信じていても)、作中に描かれるクソガキどもと同じような考え方の人間が、実際に存在しても不思議ではないと、心当たりがあるからこその不快感なのか。

 家庭の経済状況が学歴と相関関係がある、という研究(

https://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/pdf_seika/h28/nier_dps_008_201803.pdfとか)

も記憶に新しいが(気になったら探してみてください)、生まれた家が裕福で、幼い頃から熱心に勉強、スポーツ、芸術においてあらゆる機会を与えられ、当然の如く東大に進学するような人間に、自分たち以外の人間、すなわち「東京大学の学籍を有していない人間」を想像する力はあるのか?実際の事件に着想を得たフィクションである、と断られてはいるものの、「東京大学」と名前がそのまま使われている以上は、どうしても現実の世界と物語とを接続して考えざるを得なかった。作中で事件を起こした東大の学生たちが、どうやって何事も要領よくこなせてお金にも困らず、将来が約束された自分たちのようでない人のことを想像することができるのだろうか。彼らの学力やスキルは当然ある程度の「努力」を通じて獲得されたものであると同時に、家庭環境や経済状況にも大いに助けられているという事実について思いを巡らせることができないのは彼らだけの責任なのであろうか。))

 子を思う親の気持ち、親のプライド、子が犯した罪の重さを認識できない親の描写も暗い気持ちにさせられた。大学生の息子や娘が、親の目の届かないところで何をしているかきちんと把握している親がどれほどいるのだろうか。そして把握しているとすればそれは正しいことなのだろうか。一個人として、あるいは一人の女性として被害者に寄り添える登場人物が描写されていたことが、唯一と言って良いほどのフィクション性、もっと言えばご都合的に登場するものと思えた。そのご都合的描写がなくては、読後にもっと落ち込んでいたかもしれない。どのような取材をもとにした描写なのか、読んでいて嫌になるような「リアリティ」(「リアル」とは言わない、実際東大がどんなところなのかは知らないから)の描写の連続。やや手垢のついたインターネット描写が気にはなったが、でも実際インターネットのバカってこんな感じだよね、と本筋と離れたところでも暗い気持ちになる。これも(もちろん取材に基づいているとはいえ)想像力。相手がどういう気持ちになるかを考えるのも想像力。自分たちみたいに要領が良くない人のことを考えるのも想像力。でも、何を言っても恵まれた側にいることは間違い無いであろう僕が、この本を悔しくて腹が立って、何回も閉じながらまた開いて、涙目になりながら読み終えたことはなんなのか。欺瞞でしょうか。結局エンターテイメントなのでしょうか。共感できるフリをして満足しているだけなのでしょうか。

 『万引き家族』『パラサイト』といった、社会に存在する貧困、格差を描いた映画作品が「人気作」として話題に出ることも度々あり、またこの『彼女は頭が悪いから』自体も「東京大学生協で最も売れた作品」と帯でPRされている。作中に描かれるような東大生がこの本を読んだとして、それでも「この女が悪いじゃん」と言うのだろうか。もっと恐ろしいのは、『万引き家族』や『パラサイト』や『彼女は頭が悪いから』を通して、「自分に与えられた環境は当然のものではないのだと思った」「学歴とは関係なく人として大切なものがあると思った」などと、いわば「正解」の感想を述べることだって十分に考えられるということ。彼らは頭が良いのだから。登場人物の気持ちを四択の中から選ぶのが、日本で一番得意な人間の集まりなのだから。